久生十蘭『眞説・鐵仮面』桃源社

 久生十蘭(1902〜57)も「鉄仮面」の話をもとにした小説を書いている。「オール読物」という雑誌の昭和29年1月号から10月号に連載された『眞説・鐵仮面』がそれで、昭和44年に単行本化された。
 久生十蘭は、鉄仮面の正体について、ルイ14世の双子説にひとひねり加えたものを採用している。すなわちルイ14世は、宰相マザランと皇太后アンヌ・ドートリッシュの間に生まれた不義の子であり、その少しあとに生まれた先王ルイ13世と皇太后の子、真の王位継承者はマッチョリと名付けられ、身分を隠して密かに養育されていた。しかし、マッチョリは真相を知ったルイ14世によって捕えられ、「鉄仮面」の囚人として一生を過ごすというものである。
 『眞説・鐵仮面』は一種の家庭悲劇だ。それは、死を悟った母アンヌ・ドートリッシュが、息子マッチョリとの対面を切望することによって始まる。彼女は、二十七年間、マッチョリの存在を隠し通してきたが、死が近いと知ると、肉親の情には勝てず、息子を呼寄せる。この母子の再会の場面は、『眞説・鐵仮面』の最大の読みどころだ。
 息子マッチョリを目の前にしたアンヌ・ドートリッシュは、意識が朦朧とするなか、「私の天使…仏蘭西の王…」と呼びかける。しかし、その声は弱々しく、マッチョリには聞き取れない。そこにルイ14世が割って入ってきて、自分の出生の秘密を知ってしまう。アンヌ・ドートリッシュはルイの方をマッチョリと思い込み、「私を抱いておくれ…聖餐もいらない、終油もいらない…あなたに抱いてもらえば、安心して、神様のお傍へ行けるから」と言う。それに対して、ルイは「母后さまは、頭の調子が狂われたとみえて、あられもない譫言を言われる」と、冷たく言い放つ。人違いに気付いたアンヌ・ドートリッシュはそのまま絶命する。
 母を知る機会を永遠に失ったマッチョリと、真実を知ることで母から切り離されたルイ14世、そして息子との絆を取り戻せないまま他界する母。なんとも残酷な家族のドラマだ。そして、異父兄弟の片割れは、一生の間、鉄仮面を被り続けるという残酷な運命を背負う。
 人は仮面を付けることで、自らのアイデンティティを隠すことができるが、マッチョリに鉄仮面を被せることは、特別な意味を持ってくる。なぜなら、マッチョリは母の死によって、アイデンティティを取り戻す機会を失ってしまった人間だからだ。鉄仮面は、彼のアイデンティティの回復不可能性を象徴しているのである。
 鉄仮面=ルイ14世の双子説は、もともとデュマが「ダルタニヤン物語」のなかで採用しているものだが、この説は、鉄仮面の物語を家族の物語へと変貌させることができる。『オイディプス王』の例を持ち出すまでもなく、家族の物語は人々を最も魅了する物語の形式のひとつだ。久生十蘭もまた、この説を使って見事な小説を書いた。それにしても、数多く書かれた「鉄仮面」の物語のうち、鉄仮面の正体として最も数多く用いられているのは、いったいどの説なのだろうか。気になるところではある。

ボアゴベ『鉄仮面』講談社

Fortuné du Boisgobey, Les Deux Merles de Monsieur Saint-Mars (1878)

 ルイ14世治下のフランスに、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人がいた。松村喜雄『怪盗対名探偵』によれば、この囚人は1669年、ピニョロル(現イタリア)の要塞に収容されたのち、各地の監獄を転々とし、1703年、パリのバスティーユの監獄で死亡した。実に34年もの間、監獄に収容されていたわけだが、その間、仮面を取ることは許されなかった。その正体については様々な説があり、ルイ14世の双子の兄弟であるとか、さる有力貴族であるとか言われているが、今日に至るまではっきりとしたことはわかっていない。
 この鉄仮面の謎は、小説や劇の格好な題材として多くの作品を生み出した。日本でも黒岩涙香が『鐵仮面』を明治25年から26年にかけて新聞に連載し、大変な人気となった。涙香の『鐵仮面』は、ボアゴベという作家の作品を翻案したものであるが、このボアゴベ、本国フランスではすっかり忘れられた存在になってしまっている。もともとは、19世紀後半に大変な人気を博した新聞連載小説作家だったのだが、今では名前を知っている人は少ない。むしろ、黒岩涙香がボアゴベの英訳版をもとに、たくさんの翻案物を生み出した日本での方が、有名かもしれない。ちなみに、ボアゴベの書いた鉄仮面の物語は、現在フランスでは手に入る版がなく、国立図書館などに行って、当時出版された版を探さなければ読めないようだ。
 ボアゴベの作品のもともとのタイトルは『鉄仮面』ではない。日本語に訳せば『サン=マール氏の二羽の鶇(つぐみ)』となる。サン=マール氏とは鉄仮面の身柄を預かる典獄の名前で、実在の人物である。サン=マール氏は、ボアゴベの小説の中で、自分が預かっているふたりの重要な囚人のことを「白鶇(merle blanc)」と呼んでいて、そのうちのひとりが鉄仮面なのである。なお、フランス語で「白鶇」は「非常に珍しい物(人)」という意味で使われる。
 ボアゴベ版『鉄仮面』は、女の執念の物語だ。ボアゴベは、鉄仮面の正体に二重の可能性を持たせ、小説を最後まで読まないと謎がはっきりしない仕組みにしている。ルイ14世に対する反乱を企てたモリス・デザルモアーズという騎士か、彼を罠にはめたフィリップという男か、このうちのどちらかが鉄仮面だ。そして、モリスの恋人ヴァンダは鉄仮面の正体を知ろうと、あの手この手を駆使する。鉄仮面がモリスなら恋人を救出するために、フィリップなら恋人の復讐をするために。しかし鉄仮面に対する警備は堅く、ヴァンダの試みはことごとく失敗に終わる。
 鉄仮面の正体が気になる読者は、読み終わるまで数時間我慢すればよいが、ヴァンダは、小説内の時間で30年間、鉄仮面の謎を知ることだけを目的に人生を送る。この執念やすさまじい。果たしてヴァンダは鉄仮面の正体を知ることができるのか。ボアゴベの『鉄仮面』は、女版「巌窟王」といったところだ。
 途中、本筋とは関係のない話に逸れていくところなど、退屈な部分もあるが、全体としては大変に面白い読み物になっている。この作品を基にした黒岩涙香の『鐵仮面』が人気を博したのものうなずける。
 ボアゴベの『鉄仮面』は、下に挙げた単行本以外に、文庫にも入っている。

鉄仮面〈上〉華やかな報復

鉄仮面〈上〉華やかな報復

鉄仮面〈中〉バスチーユの囚人

鉄仮面〈中〉バスチーユの囚人

鉄仮面〈下〉鉄仮面よ永遠に

鉄仮面〈下〉鉄仮面よ永遠に

オーギュスト・ル・ブルトン『男の争い』ハヤカワ・ミステリ

Auguste Le Breton, Du Rififi chez les hommes (1953)

 フランス文学には、ロマン・ノワールと呼ばれるジャンルがある。日本語に訳せば「暗黒小説」であり、犯罪、暴力、アウトローなどを重要な構成要素とする。1945年に大手出版社のガリマールが「セリ・ノワール」という叢書の刊行を開始したことで世に広まり、現在に至るまで多数の作品が出版されている。
 当初、ロマン・ノワールではアメリカっぽい作品が好まれ、フランス人作家がわざわざアメリカ人風のペン・ネームを使って執筆することもあるくらいだったが、やがてフランスのことを書く作家たちが登場してくる。
 その先駆的な存在のひとりが、オーギュスト・ル・ブルトンであり、1953年、『男の争い』で「セリ・ノワール」からデビューする。実は、このル・ブルトン、小説家としてデビューする前は、本当のパリ暗黒街の一員だった。彼は自分が熟知する世界をそのまま小説の舞台にしたわけだ。
 『男の争い』のあらすじは実に単純だ。刑務所帰りのトニーという男が、仲間のジョーたちと宝石店強盗をして、大量の宝石を手に入れるが、このことをギャングのソラ兄弟に嗅ぎ付けられる。ソラ兄弟は宝石の横取りを目論み、トニーたちとの間で血みどろの争いが始まる。
 この小説の特徴は、主人公トニーに象徴される過剰なまでの暴力性だろう。例えば、小説の冒頭、トニーが賭ポーカーでイカサマをしたチンピラたちを容赦なく撃ち殺す場面がある。

コンマ一秒、トニーの拳銃は手のひらのなかで跳ねた。彼の撃ち方はいつもこんなふうなのだ。こころもち下にして標的を狙う。つづけざまに三発、弾は発射された。最初の一発がニースの男の額、薄ねずみ色のボルサリーノのすぐ下に命中した。あとの二発はその少し下、頬のあたりに当たった。(p.13)

 このあとかなり陰惨な描写が続くので、引用はここまでにしておくが、冒頭の数頁を読むだけで、『男の争い』が生半可な小説でないことがわかる。
 陰惨と言えば、トニーが自分を裏切った元愛人を痛めつける場面も凄まじい。トニーは、元愛人の顔面を引っ叩き、グラスを投げつけ、ベルトで鞭打つ。こんな描写が延々と続く。血まみれになり、意識を失った元愛人に対して、トニーはさらにとんでもない行為に出る…。
 この作品の暴力描写はとにかく苛烈だ。そこにあるのは記号化された暴力ではなく、読んでいる者に吐き気すら催させるような生々しい暴力であり、血の匂いが常に漂う。トニーもまた、結核に冒されており血を吐くのだが、『男の争い』を支えているのは、この暴力=血のリアリズムなのである。
 『男の争い』は、ジュールズ・ダッシンによって映画化されている。映画は原作の小説とかなり印象が異なるが、こちらもまた傑作だ。トニー役のジャン・セルヴェがよい。映画では、セリフ無しで展開する宝石店強盗の場面が有名だが、個人的には、傷付いたトニーが、意識朦朧としながら車を飛ばす最後のシーンの方が印象に残っている。

男の争い (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

男の争い (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

昨晩のDigを聴いて

 本は読んでいるのだが、なかなかブログに記事を書く暇がなかった。今日も読んだ本の感想ではない。ラジオのことだ。
 昨晩、仕事をしながらTBSラジオのDigを聴いていたのだが、取り上げていたテーマは今、大揺れの大相撲。この放送がえらく面白くて、仕事が手につかなかった。
 とにかく凄かったのが、ゲストで出てきた元力士の人の話。力士の金銭感覚やヤクザとの交際について開けっ広げに語り、テレビだったら絶対に流せないようなことも言っていた。ヤクザとの交際を肯定するような内奥も含まれていたので、放送を聴いて怒りを覚えた人もいたようだが、角界の人間の感覚を知るという意味では、貴重な放送だった。よくぞやってくれたと思う。
 最近とみにメディアの報道が生ぬるいものになっていると感じる。メディアは各方面に過剰なまでの配慮をしている。スポンサーを怒らせないため、視聴者からクレームを受けないため、自主規制をかけて、危ない橋を渡ろうとしない。そして問題の本質からはどんどん遠ざかっていく。
 そのような中、TBSラジオは頑張っている。大手メディアが取り上げない話題にも切り込んでくれる。ちなみに今夜、Digが取り上げるのは官房機密費の問題だそうだ。これも新聞やテレビではスルーされてしまうテーマ。今夜も仕事が手につかなそうだ。


Digのホームページはこちら
※過去の放送もポッドキャストで聴くことができます。

井筒和幸『ヒーローショー』

製作年:2010年
製作国:日本
監督・脚本: 井筒和幸
キャスト:後藤淳平(石川勇気)、福徳秀介(鈴木ユウキ)、ちすん(あさみ)、米原幸佑(勉・ギガブルー)、桜木涼介(剛志・ボス怪人)、林剛史(拓也・勉の兄)、阿部亮平(鬼丸)


 最近、見たいと思える邦画が本当に少ない。人気タレントが出ているとか、人気ドラマや漫画の映画化とか、そんなことを売りにしている作品ばかりで、予告編を見ていても見たいという気が全く起こらない。邦画バブルなんてことが言われているが、それは単にマーケティングが成功しているだけだろう。映画自体が面白いのであれば、日本映画が世界にどんどん輸出されていっても良いはずだが、そんな話は聞いたことがない。日本は映画業界までガラパゴス化してしまっているようだ。


注意!!以下、映画のネタばれを含みます。


 そんな中、久しぶりに見に行こうと思った日本映画の新作が『ヒーローショー』だ。井筒監督も、予定調和的な、生ぬるい日本映画が氾濫していることに違和感を覚えていたらしい。だから、今回の映画では一切妥協せず、自分の撮りたい映画を撮ったという。ちらほらと漏れてくる情報によれば、最悪のことばかり起きて、見終わったらかなり嫌な気分になるとのこと。暴力描写も満載らしく、最近の日本映画、すくなくともメジャーな映画には珍しい傾向の作品ということで、覚悟半分、期待半分で映画館に向かった。
 『ヒーローショー』はふたりのユウキ(勇気)の物語だ。カタカナの「ユウキ」はお笑い芸人志望だが、その日その日を刹那的に生きている感じで中身は空っぽ。漢字の「勇気」は、千葉の勝浦に住む元自衛官の配管工。気性は荒いが、年上(おそらく)の恋人に対しては優しく、将来は石垣島で飲食店を開くという夢を持っている。
 このふたりが、ある暴力事件に巻き込まれてしまうことで物語は進行するのだが、彼らを待ち受けている運命のギャップは実に不条理だ。夢を追い求めていた勇気が悲劇的な結末を迎える一方で、なんとなく生きてきたユウキは、そのままなんとなく生き延びてしまうのだから。
 この結末に象徴されるような救いのなさが、おそらく映画の肝なのだろう。ハッピーエンドを拒否し、物語の救いのなさで観客の心を揺さぶる。ふたりが巻き込まれる暴力事件の原因のばかばかしさと、結果の深刻さとの間にある落差もまた、映画の悲劇性を高めている。お涙頂戴の感動作ばかりがヒットする日本の映画界にあって、『ヒーローショー』は異色の作品だと言える。
 でも、だからこそ惜しいなあとも思った。観客が見たくないと思われるものを、あえて見せるという映画の戦略が、私には中途半端なものに感じられたのだ。
 特に違和感を覚えたのは、暴力を受ける様子が描写されるのが、大半の観客が感情移入するであろう側、つまり二人のユウキ(勇気)から見て敵側の人物だけという点だ。鬼丸とユウキの元相方がリンチされる場面は、延々とスクリーンに映しだされるのに対し、ラスト近くで勇気が復讐されるところでは、具体的な暴力描写はなく、血まみれになって倒れているところを恋人に発見されるだけ。
 これではちょっとバランスが悪い。リンチの場面にしても、その前までで鬼丸たちの悪逆非道ぶりがこれでもかと強調されるので、彼らがいくらひどい目にあっても、当然じゃないかという気持ちがどうしても生じてしまう。むしろ勇気が鬼丸たちに暴行される場面の方をしっかり描くことで、物語の悲劇性が高まり、観客の心に強い印象を残したのではないだろうか。
 他にも、あんな風に金属バットで殴られたら、普通は死ぬだろうとか、半分死にかけていた鬼丸が、二日後くらいには回復してお礼参りに来るところとか、血まみれの鬼丸を見たギャルたちが、あまり怖がっていないところとか、ツッコミどころはままある。
 また、拓也が勇気に「これじゃ、俺の人生ゲームオーバーだ」みたいなことを言う場面があるが、こういうセリフはやめて欲しい。いくらなんでもくさすぎる。ここに限らず、登場人物が自分の内面をさらけ出すようなことを話し始めると、急に演出が安っぽくなってしまう。勇気が泣きながら恋人に話す場面などもそうだ。
 同じく暴力をテーマにした映画だと、ヤン・イクチュンの『息もできない』の方が衝撃は大きかった。

種村季弘『食物漫遊記』ちくま文庫

 種村季弘による食物をめぐるエッセイ集。でも、あれが美味かった、これが美味かったというようなグルメ本ではない。そこはさすが種村季弘という感じで、ひとひねりもふたひねりもしてある。
 たとえば「画餅を食う話」では、アパートに屯ろする学生仲間が、ひとりずつ向かいにある料理学校の見本食食べ放題というイベントに偵察へ行く。そして、帰ってきて仲間たちに、ああだこうだと報告をするのだが、実際彼らは何も食べていない。料理学校に行っても、いたたまれなくなってすごすごと退散してしまう。学生たちは想像力を駆使して、料理をでっち上げているのである。
 文庫版の解説で吉行淳之介が書いているように、『食物漫遊記』の多くは「幻に辿り着く話」だ。あけすけに言ってしまえば、食物をめぐる嘘。

私は真理を語るよりも嘘つきのほうを愛する。嘘つきも、用心深い嘘つきより軽率な嘘つきのほうがいい。その軽率さは、彼が読者を愛しているしるしでもある。

 これは本文のなかに引用されている林語堂の本の一節だが、『食物漫遊記』、あるいは種村季弘の著作全体の本質をうまく言い表しているように思う。物書きたるもの嘘をついてナンボのものなのだ。

食物漫遊記 (ちくま文庫)

食物漫遊記 (ちくま文庫)

後藤忠政『憚りながら』宝島社

 昨日の記事に書いた藤木TDCさんもラジオで紹介していた本。前から気になっていた本なのだが、Amazonでは在庫切れになっているようだ。私は紀伊國屋書店のウェブサイトで手に入れた。
 『憚りながら』は、元後藤組組長の後藤忠政氏へのインタビューをもとに構成したもので、2008年に山口組を引退した後藤氏が自らの半生を振り返る内容になっている。編集者の腕も良いのだろう。後藤氏の軽快な語り口に引き込まれ、一気に読んでしまった。
 この本が話題になっているのは、これまで語られてこなかったタブーに大きく踏み込んでいるからだろう。あいまいにされている箇所もままあるが、裏社会にまつわるヤバそうな話が、多くの実名とともに語られている。
 本書の最大の読みどころというか、最も興味をそそられるところは、第4章にある某宗教団体をめぐる話だろう。教団の顧問弁護士や元都議の暗躍などが赤裸々に語られていてかなり生々しい。あとは野村秋介との交友を語った第6章も興味深い。その中に元国会議員のパーティー券購入をめぐる話が出てくるが、これがなかなか笑える。その元政治家は、ある建設会社にパーティー券を無理やり買わせたのだが、それがヤクザに流れてしまう。自分のパーティーにヤクザが大挙として押し寄せては大変と、その政治家が後藤氏に泣きついたという話だ。ここで書かれていることがどこまで事実なのかは、私には判断のしようもないが、この手の話は珍しくもないのだろうなと思った。
 この本には週刊誌的な好奇心をそそるような話題が豊富で、そちらに目がいきそうになるが、後藤氏のがヤクザとして成り上がっていく過程や、ヤクザ同士の抗争など、堅気の人間にはうかがい知れない世界のことがリアルに語られている。この本の印税は高齢者福祉および児童福祉のために寄付されるとのことなので、買って読んでみても損はないと思う。

憚(はばか)りながら

憚(はばか)りながら