ボアゴベ『鉄仮面』講談社

Fortuné du Boisgobey, Les Deux Merles de Monsieur Saint-Mars (1878)

 ルイ14世治下のフランスに、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人がいた。松村喜雄『怪盗対名探偵』によれば、この囚人は1669年、ピニョロル(現イタリア)の要塞に収容されたのち、各地の監獄を転々とし、1703年、パリのバスティーユの監獄で死亡した。実に34年もの間、監獄に収容されていたわけだが、その間、仮面を取ることは許されなかった。その正体については様々な説があり、ルイ14世の双子の兄弟であるとか、さる有力貴族であるとか言われているが、今日に至るまではっきりとしたことはわかっていない。
 この鉄仮面の謎は、小説や劇の格好な題材として多くの作品を生み出した。日本でも黒岩涙香が『鐵仮面』を明治25年から26年にかけて新聞に連載し、大変な人気となった。涙香の『鐵仮面』は、ボアゴベという作家の作品を翻案したものであるが、このボアゴベ、本国フランスではすっかり忘れられた存在になってしまっている。もともとは、19世紀後半に大変な人気を博した新聞連載小説作家だったのだが、今では名前を知っている人は少ない。むしろ、黒岩涙香がボアゴベの英訳版をもとに、たくさんの翻案物を生み出した日本での方が、有名かもしれない。ちなみに、ボアゴベの書いた鉄仮面の物語は、現在フランスでは手に入る版がなく、国立図書館などに行って、当時出版された版を探さなければ読めないようだ。
 ボアゴベの作品のもともとのタイトルは『鉄仮面』ではない。日本語に訳せば『サン=マール氏の二羽の鶇(つぐみ)』となる。サン=マール氏とは鉄仮面の身柄を預かる典獄の名前で、実在の人物である。サン=マール氏は、ボアゴベの小説の中で、自分が預かっているふたりの重要な囚人のことを「白鶇(merle blanc)」と呼んでいて、そのうちのひとりが鉄仮面なのである。なお、フランス語で「白鶇」は「非常に珍しい物(人)」という意味で使われる。
 ボアゴベ版『鉄仮面』は、女の執念の物語だ。ボアゴベは、鉄仮面の正体に二重の可能性を持たせ、小説を最後まで読まないと謎がはっきりしない仕組みにしている。ルイ14世に対する反乱を企てたモリス・デザルモアーズという騎士か、彼を罠にはめたフィリップという男か、このうちのどちらかが鉄仮面だ。そして、モリスの恋人ヴァンダは鉄仮面の正体を知ろうと、あの手この手を駆使する。鉄仮面がモリスなら恋人を救出するために、フィリップなら恋人の復讐をするために。しかし鉄仮面に対する警備は堅く、ヴァンダの試みはことごとく失敗に終わる。
 鉄仮面の正体が気になる読者は、読み終わるまで数時間我慢すればよいが、ヴァンダは、小説内の時間で30年間、鉄仮面の謎を知ることだけを目的に人生を送る。この執念やすさまじい。果たしてヴァンダは鉄仮面の正体を知ることができるのか。ボアゴベの『鉄仮面』は、女版「巌窟王」といったところだ。
 途中、本筋とは関係のない話に逸れていくところなど、退屈な部分もあるが、全体としては大変に面白い読み物になっている。この作品を基にした黒岩涙香の『鐵仮面』が人気を博したのものうなずける。
 ボアゴベの『鉄仮面』は、下に挙げた単行本以外に、文庫にも入っている。

鉄仮面〈上〉華やかな報復

鉄仮面〈上〉華やかな報復

鉄仮面〈中〉バスチーユの囚人

鉄仮面〈中〉バスチーユの囚人

鉄仮面〈下〉鉄仮面よ永遠に

鉄仮面〈下〉鉄仮面よ永遠に