尾崎翠『第七官界彷徨』河出文庫

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

 川村湊『日本の異端文学』でその名を初めて知って以来、尾崎翠はどことなく気になる作家だった。今回、河出文庫版の『第七官界彷徨』で、この「忘れられた作家」の作品を初めて読んだ。
 1896年、鳥取県に生まれた尾崎翠は、1919年に上京し、いくつかの作品を発表した後、32年に帰郷、文学の世界から離れる。その後、69年になって、31年に発表された代表作『第七官界彷徨』が學藝書林の「全集・現代文学の発見」に収録され、再評価の気運が高まるが、再び筆を執ることはなく、71年に死去。
 『第七官界彷徨』は、タイトルからして変わっている。「第七官」とは、人間の五感(五官)と、直感である第六感の向こうにある何からしい。この「第七官にひびくような詩」を書いて、「誰かいちばん第七官の発達した先生のところに郵便で送ろう」と考えている少女が、ふたりの兄と従兄弟との共同生活をつづったのが、『第七官界彷徨』ということになっている。
 タイトルだけでなく、登場人物たちの名前もどことなく変だ。主人公の名前が小野町子で、彼女のふたりの兄が小野一助と小野二助、そして彼女の従兄弟が佐田三五郎という。小野一助は精神科医で、「分裂心理学」なるものを研究している。小野二助は農学部の学生で、彼の部屋には二十日大根の畑が広がっており、いつも研究のための肥料を煮ている。佐田三五郎は、音楽予備校に通う学生で、調子の狂ったピアノをひき鳴らしている。
 この四人の生活に、何か劇的な事件や出来事が起こるわけではない。淡々とした日常とも言えるのだが、どことなく滑稽で、読んでいて飽きない。例えば、「肥料の熱度による植物の恋情の変化」という小野二助の論文を主人公が愛読書としているとか、一助と二助の夢の心理に関する議論とか、大まじめな調子でかなり変なことが語られる。『第七官界彷徨』は、何とも言えない不思議な味わいのある作品だ。

第七官界彷徨 (河出文庫)

第七官界彷徨 (河出文庫)